第七話画像

【第7話】急坂を上りきった先に謎のモニュメントが…?

今回は戸塚宿を目指して歩きます!

急な坂道を上った先に待っていた美しい景色にうっとり…
そば屋の店主に教えてもらった謎のモニュメントを発見?
おいしい和菓子にゆぴも上機嫌!
難所 権太坂を制覇し、国境を越えます!
さらば武蔵国、ここから相模国へ

過酷だった! 宿場の継ぎ送り業務

江戸時代、街道沿いの宿場には継ぎ送りという重要な任務が課されていた。継ぎ送りとは、幕府の公用旅行者や大名などが宿場を訪れた際、その荷物や貨客を次の宿場まで運ぶ業務を指す。その担い手である問屋は、あらかじめ人手や馬を問屋場に確保しておき、継ぎ送りを行った。この人手や馬の提供は周囲の農村に課されたが、これを助郷といった。その報酬は労働量に見合わず僅かであったといい、周辺農村を大いに苦しめたといわれている。

横浜三名士 苅部本陣

保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣を祖先に持つ苅部家が務めました。苅部家は、本陣を構える以前、祖先を弔うために信州の善行寺にとどまっていましたが、先代に地域の名家であったため、江戸幕府の命によってこの地に本陣を構えました。以降、およそ270年11代にわたって本陣・名主・問屋の三役を務め、第10代の時には横浜道の開発に大きな功績を残しました。この地域では、高島嘉右衛門、吉田勘兵衛とともに横浜三名士として名を残しています。現在の本陣跡には、当時の門が残されています。

旅籠の変遷

武士や一般庶民などの旅人が広く宿泊していた旅籠は、元々、旅人が食糧を持参し、薪代を払って自炊するのみの簡易的な宿、いわゆる木賃宿であった。その後、江戸時代になると街道の整備や宿場の発達が進み、次第に庶民の旅が盛んになったため、木賃宿は食事や酒を提供するようになり旅籠へと発達した。さらに、宿泊を主な目的とする平旅籠だけでなく女郎を置く飯盛旅籠などが派生していった。

箱根駅伝の難所 権太坂

権太坂は江戸から上方へ向かう東海道で、最初の難所といわれる急勾配でした。あの箱根駅伝でも、難所として幾多のドラマを生んでいる権太坂。実は箱根駅伝の権太坂は、私たちが歩いた旧東海道と並行して走る国道一号線です。新旧どちらの権太坂も険しい坂道ですね。

難所のオアシス? 境木立場跡

この境木立場跡には、その名の通り立場茶屋がありました。立場茶屋は宿場と宿場の間に設けられた休憩所だったのですが、なかでもこの境木の立場茶屋は、権太坂、焼餅坂、品濃坂といった難所続きの高台にあり、多くの人が休憩に訪れた茶屋だったそうです。旅の途中、この高台から見晴らす景色に人々はきっと癒されたことでしょう。

国と藩が混在!どう違う?

権太坂を上りきったこの辺りは、かつて武蔵国と相模国の国境でした。これらの国は、飛鳥時代の律令制によって設置された行政区分のことをいいます。その後、江戸時代に入ると全国各地に大名の支配領域である藩が形成されましたが、旧来の国境は地理的区分として残っていました。やがて明治維新を経て廃藩置県がなされたあとも、この地理的区分は残りましたが、近年は都道府県にとって代わられつつあります。