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【第16話】 龍馬が初めて富士山を見て放った一言とは?!

第16話は、原宿からスタート!

富士山のふもと吉原宿へ突入し、あのB級ご当地グルメを初実食!
昔の田子の浦はココじゃなかったらしい?
そして、吉原宿には名勝 左富士が!
ここで初めて富士山を見た龍馬が放った一言…
ノスタルジックな岳南電車に乗ってみたい、
けど、次なる宿場 へ歩きます!

かぐや姫と富士山

『かぐや姫』といえば知らない人はいない有名な物語。竹から生まれた少女が、ふるさとの月へ帰ってしまうというストーリー。しかし、ここ富士山周辺では少し異なった話が語り継がれているのです。かぐや姫は月のお姫様ではなく、実は富士山の神様だったというのです。月ではなく富士山に帰っていったかぐや姫に導かれ、人々は富士山の山頂まで登れるようになったのだとか。

田子の浦ってどこ?

今日私たちが歩き始めた付近には、JR東田子の浦駅があります。田子の浦と聞けばあの和歌を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」(山部赤人「万葉集」)。百人一首でおなじみの歌ですね。ここで詠われている田子の浦は、現在の富士市の南にある港付近ではなく、もっと西、薩埵峠の麓から倉沢・由比・蒲原のあたりまでの海岸を指すのです。

吉原宿

東海道五十三次の14番目の宿場町。元は、現在のJR吉原駅付近にありましたが、2度にわたる津波の被害を受けて、現在の吉原本町の付近に移転しました。富士山への参詣の際にも吉原宿が利用されていましたが、それほど裕福な町ではなかったため周囲の農村から助けを受けていました。

野心に燃えていた 坂本龍馬

一瞬でもこの絶景を見て、心のうちがわくわくする人間と、そうでない人間とは違う。」
これは、ある人物が言った言葉です。そう、坂本龍馬。龍馬が18歳の頃、江戸に上る旅路で初めて富士山を目にして、心から感動したそう。そのとき一緒にいた藤兵衛は何も感じ得ることなく、龍馬にこう訊ねた「この眺望を見て、何を思ったか」と訊ねた。すると龍馬はこう答えた。「日本一の男になりたいたいと思った。」ここに彼の壮大な野心が垣間見ることができます。

戦わずして勝利? 平家越えの碑

こちらは平家越えの碑です。富士川を挟んで平家と源氏が対峙した「富士川の戦い」という合戦があった場所です。平家の軍勢が水鳥の一斉に飛び立つ羽音を夜襲と勘違いして、西へ退却し、刀を交えることなく終えたのは有名な話です。

インスタ映え間違いなし! 岳南鉄道

吉原駅と岳南江尾駅のわずか9.2kmを結ぶ岳南鉄道。車窓から眺める景色はのどかで懐かしい雰囲気を感じさせ、夜には美しい工場夜景が輝きます。すべての駅舎からは富士山を望むこともできるとか。ノスタルジックな電車の旅にぜひ乗ってみてください。

ご当地B級グルメ つけナポリタン

みなさん、富士市の名物 つけナポリタンはご存知でしょうか?ここ吉原商店街では、喫茶店や飲食店にメニューに『つけナポリタン』があります。もとは、この吉原商店街の活性化のために開発されたご当地グルメだったそうですが、2011年にはB-1グランプリにも出場するほどまで広まり、今やすっかり富士市おなじみの料理になっています。

木戸って何?

吉原宿の東西にあったのは見付ではなく、木戸でした。木戸というのは、江戸時代、隣り合う町同士の境界や、武家町と町人町との境に置かれた門のことを指します。昼は開放して自由に行き来できましたが、非常時や夜には保安のために閉じていたそうです。

紙のまち 富士市

富士山のふもとにあり、豊かな水源に恵まれていたここ一帯では古くから紙すきが行われていました。江戸中期には「駿河半紙」として人気を博しブランド化していきました。当時は山村部の産業であり、主要産業ではありませんでしたが、明治時代になって宿駅制度が廃止され、宿場に従事する者の大量失業が懸念されると、その打開策として、製紙業が注目されるようになりました。明治政府の方針で製糸業が国策となり、しだいに富士市は“紙のまち”としての基盤が形成されました。現在も、ご家庭でもお馴染みのエリエールの大王製紙グループや、クリネックスやスコッティの日本製紙グループの工場があります。