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【第35話】猛暑豪雨もなんのその!家康ワールドを大満喫ぅ!

第35話は、岡崎宿! 徳川家康の聖地巡礼パート2!

この日は記録的な猛暑日。でも、大好きな家康の生まれ故郷を
訪ねるとあって、今日のゆぴはモチベーションがちがいます!
名奉行・大岡越前ゆかりの陣屋跡を見学し、さあ岡崎宿に突入だ~
宿場の名所・二十七曲りの石碑に往時の面影を偲びつつ
見えてきました本日のハイライト、岡崎城
480年前、まさにここで家康が生まれました! 感動~!
遺訓に心を打たれ、石像にハグして、天守閣に登れば
家康が見たであろう岡崎宿の眺望が目の前に・・・
とその時、何やら怪しい黒雲が忍び寄り、あっという間に
雷鳴と豪雨が悲鳴をあげるゆぴに襲いかかる!
どうなる、ゆぴ!?・・・この続きは本編をご覧あれ!

大岡越前

時代劇でお馴染みの名奉行・大岡越前にまつわる話をひとつご紹介します。
あるところに、子どもが一人。その母親を名乗る者が二人。一向に決着がつ
かない様子を見かねた大岡越前はこう言います。「子どもの手を引っ張り、
勝った方を母と認めよう」と。当然引っ張られた子は痛がります。それを
哀れに思った片方の母親が手を放すと、もう一方は喜んで子どもを連れて帰
ろうとした。すると大岡越前は「子を引き寄せた方が勝ちとは言っていない。
子が痛がるようなことをし続けられるのは本当の親ではない」と言った。
大岡越前は、愛情のある母をしっかりと見極めたのである。

西大平藩陣屋

大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。享保の改革を
実行した大岡忠相は、第8代将軍吉宗にその功績を称えられ三河国で1万石
の大名になりました。交通に便利な東海道筋に置かれましたが、江戸に常駐
する定府大名のため、そもそも参勤交代がなく、家臣の多くは江戸に住んで
いました。

岡崎宿

江戸から数えて38番目の宿場。本陣三軒、脇本陣も三軒もあった大規模な
宿場で、矢作川の水運や奥三河からの物資の集散地としても繁栄をしていま
した。また岡崎は徳川家発祥の城と知られる岡崎城の城下町で、徳川家ゆか
りの史跡も多く見られます。

岡崎城下二十七曲り

岡崎宿の旧街道は「岡崎二十七曲り」と呼ばれ、現在でも街道筋には二十七
曲りを示す石碑や常夜燈が残されています。これは岡崎城 城主の田中吉政が、
城下防衛とともに、街道筋に店舗を並べて旅人たちにとどまらせる経済効果
を狙った道として作られたそうです。冠木門前から出発し、矢作橋までの約
4km、岡崎城や八丁味噌の蔵など見どころが沢山あります。

岡崎城

城が築かれたのは室町時代。後年、家康の祖父である松平清康が入城すると、
本格的な城郭に仕上げました。家康が誕生した地であることから、江戸時代
には神聖視され、譜代大名が代々城主となり存続しました。白亜の天守を囲
うように桜が咲き誇る春の景色は美しく、神社や料亭、資料館など見どころ
豊富な城跡に、今でも多くの観光客が訪れています。

徳川家康が残した遺訓

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を
常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること
知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは
過ぎたるよりまされり。」
意味は・・・人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くような
もの。急いではいけない。不自由が当たり前と考えれば不満は生じず、心に
欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すこと。我慢を基礎とし、怒り
は敵と思いなさい。勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険であ
る。自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。足りないほ
うが、やり過ぎてしまっているよりは優れている・・・
我慢でストレスを感じやすい現代。もしかしたら知らず知らずに怒りっぽく
なって誰かを傷つけているかもしれません。そんなときはこの言葉を思い出
します。今でもしっかり心の奥に届く、家康の言葉ではないでしょうか。

カクキュー 八丁味噌の郷

1560年、桶狭間の戦いで敗れ、岡崎に逃げ延びた武士の子孫が創業したこと
に始まった八丁味噌。その名の由来は、岡崎城から西に八丁の距離にある八
丁村で作られたことにあるんだそう。その本家本元である「カクキュー八丁
味噌の郷」には、味噌蔵はもちろん、史料館やお食事処など、八丁味噌にま
つわる歴史に触れられる施設があります。