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【第5話】ミとシを消してカナガワ!? 横浜開港の歴史をたどる

第五話は神奈川宿!

攘夷の世論が沸騰する幕末に起きた悲劇の現場や外国領事館の跡地を巡れば、横浜開港当時のさまざまな情景が目に浮かんできます。案内人ゆぴが、偶然 “かながわ”地名由来の地を発見!本邦初公開の「ゆぴ劇場」現代に復活した東海道名物の食レポもお見逃しなく!

松尾芭蕉の句碑

芭蕉が故郷の伊賀に向かう際、見送りにきた弟子たちと、川崎宿のはずれ、さっき通った京方見附近くの茶屋で、別れを惜しみ詠んだ句だそうです。

鶴見中継所から「花の2区」へ

現在私たちが歩いている鶴見市場駅のあたり、旧東海道に並走している国道15号線沿いには、箱根駅伝の鶴見中継所があります。大手町をスタートした1区のスピードランナーから、「花の2区」へと襷がつなげられる地点。23.1kmという長い区間にさまざまなドラマを見ることができます。この先、観客の多い横浜市街を走り抜けると、待ち構えるのは難所 権太坂、次の小田原中継所までのラスト3kmは激しいアップダウンが続く。このため、勝負の要となるエースが集う区間として「花の2区」と謳われています。失速してしまう選手や反対に「ゴボウ抜き」してしまう選手など、今までの箱根駅伝の歴史の中でも各校のエースによる熾烈な争いが繰り広げられてきました。

鶴見橋関門

横浜開港によって多発した外国人殺傷事件を取り締まるため、幕末に設置された見張番所です。 このような関門は、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20か所も設けられていたそうです。

鶴見のよねまんじゅう

『お江戸日本橋』の歌に出てくる銘菓、鶴見のよねまんじゅう。江戸時代、鶴見にはたくさんの茶屋が軒を連ね、腹持ちがすると旅人に大人気の よねまんじゅう があちこちで売られていました。坂本龍馬も東海道を行き来した時に食べたかもしれませんね。
明治5年に新橋~横浜間に鉄道が開通すると、鶴見を通る旅人が減り、茶屋は次々と廃業。よねまんじゅうは作られなくなってしまいました。そんな幻の東海道名物よねまんじゅうを、和菓子店「清月」さんの先代の店主が発起人となり、鶴見の菓子組合が力を合わせて現代に復活させました!

生麦事件

1862年 江戸時代末期のこと。薩摩藩主 島津忠義の父で、藩政の最高指導者 島津久光は、幕政改革を志して700人の軍勢を引き連れ江戸へ出向いた。その帰路、生麦村に差し掛かったとき事件は起こった。騎馬で川崎大師を見物しに向かっていたイギリス人が、島津らの行列を意図せず妨害してしまったが故に、薩摩藩士に殺傷されてしまったのである。この事件の賠償請求を拒否した薩摩藩に対して、イギリスは直接交渉のため鹿児島湾に艦隊を派遣した。ここに勃発した薩英戦争によってイギリスの軍事力を目の当たりにした薩摩藩は、開国へと舵を切ったのである。

神奈川宿

日本橋から数えて3番目の宿場町 神奈川宿は、当時物資の経由地として栄えた神奈川湊のそばに設けられました。近代都市 横浜のはじまりの地ともいえる神奈川宿は、日米修好通商条約を契機とした横浜開港によって外国人が行き交うようになり一躍有名になりました。幕末から明治維新にかけての史跡を多く見つけることができます。

長延寺(オランダ領事館跡)

神奈川宿の江戸方見附の脇に、寛永8年から330年余りの間、浄土真宗長延寺がありました。
黒船の来航によって横浜港が開港した後、ここ神奈川宿には相次いで外国領事館が置かれたのですが、長延寺の境内にも、オランダ領事館があったのだそうです。

神奈川宿と横浜開港

日米和親条約が締結された5年後の1859年、横浜の開港を皮切りに日本の国際化は急激に加速していった。日本を代表する国際都市となった横浜の地には、幕府によって外国領事館が建てられてたが、当時不便だった横浜村は好まれず、東海道に近い神奈川宿周辺に領事館を置くべきだという要求が迫られた。外国奉行による諸外国との会談の結果、神奈川にある寺院から選び、その中に領事館を開くことが認められた。これが、後に災いを引き起こすことになる。東海道を往来する攘夷派によって外国人が襲撃される事件が相次いだのである。幕府の申し入れもあったことから、諸外国の領事館や外国人居留地は神奈川湊から横浜港へと移った。ここから今日につながる横浜の発展がはじまったのである。

上無川(かみなしがわ)

水が少ししか流れておらず、水源が定かでないため上無川という。カミナシガワのミとシを略してカナガワというようになった、という説が記してある・・・この神奈川小学校の東脇を流れていたらしいですが、関東大震災のあとに埋め立てられ、現在では川の姿を見ることはできません。

浦島太郎ゆかりの!? 慶運寺

室町時代に開創された浄土宗寺院です。幕末には、フランス領事館が置かれ、初代領事のベルクールが滞在しました。また、浦島丘にあった観福寿寺が慶応年間に大火で焼失した際に「浦島伝説」に関する記念品が移されたことから通称「浦島寺」とも呼ばれています。境内には、浦島太郎が竜宮城に行ったとき、乙姫様からいただいたという菩薩像などが所蔵されています。

明治学院大学の創設者・ヘボン博士と宗興寺

ここ宗興寺には、アメリカ人宣教師 ジェームス・カーティス・ヘボンゆかりの地として石碑が残されています。ニューヨークで開業医を営んでいたヘボンは、日本が開国したことを知るや否や事業も家も売り払って、妻とともに日本に来ました。来日後は、先ほどの成仏寺に滞在したのち、ここ宗興寺に診療所を開き、医療活動に励んだそうです。ヘボンは、教育活動にも尽力しました。現在の明治学院大学の前身となるヘボン塾を創設したほか、ヘボン式ローマ字の考案や、日本最初の和英辞典「和英語林集成」の編さん、聖書の日本語訳など、数々の功績を残したのです。