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【第8話】戸塚宿で家康と子ども狛犬にホッコ

第八話は戸塚宿!

東海道ウォーカーのために設置された『旧東海道みちしるべ』迷わず歩けるようにと、街のうれしい心づかいに感謝しながら快調に歩くゆぴの前に現れたのは…なんと、愛する家康様が訪れたという場所だった!ゆぴ大興奮!小雨のなかの登山?に息も絶え絶え登ってゆくと…そこは、「戸塚」地名発祥の地!さらに、狛犬の子どもが超かわいくてゆぴホッコリ♡愛と癒しに満ちた戸塚旅、お楽しみください!

旧東海道みちしるべ

横浜市戸塚区は、旧東海道を活かした街づくりに取り組んでいます。その一環として、全国から訪れる東海道ウォーカーのために、地図がなくても迷わず歩けるようにと、街道沿いの迷いやすい場所や、歴史的に重要な場所に「旧東海道みちしるべ」を設置しているんだそうです。私たちも今日はみちしるべを目印に歩いていきましょう!

品濃坂

江戸時代の旅人は、朝早く江戸を立つと、日暮れまでに、この品濃坂のすぐ先にある戸塚宿までたどり着いたそうです。戸塚宿は、日本橋から10里半、約42キロはなれた所にある宿場町です。
この距離を一日で歩いてしまうなんて、当時の人はすごい脚力だったんですね! 私なんて、ここまで来るのに五日もかかっちゃいました~

戸塚宿

 
日本橋から数えて5番目の宿場町。日本橋からの距離がちょうど旅の一泊目にあたり、その賑わいや旅籠の数は、東海道五十三次のなかで、小田原宿に次ぐ規模だったそうです。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で、江戸を発った主人公の弥次さん喜多さんが初日に泊まったのも戸塚宿でした。また、幕末に黒船が来航した時は、避難民が戸塚宿まで逃げてきたと言われています。

黒船来航と人々の苦しみ

1853年―嘉永6年。黒船の滞在期間はわずか8日間であったが、それは日本中に大きな衝撃を与えたとともに、浦賀周辺の人々の暮らしに大きな爪痕を残した。黒船の撃つ空砲の音、警戒のために鳴らす半鐘の音、慌ただしい武士の動きの中、近隣の人々はただならぬ事態に緊張の連続であった。最も苦しんだと言われているのが浦賀と東海道を結ぶ金沢道に沿った村々の人たちであった。彼らは戸塚宿や保土ケ谷宿の荷役としてかり出されていたため、通常の物資運搬の他に、警備に駆け付けた武士の荷物が加わり、これまでの2倍以上の負担がかけられたのである。

大橋

戸塚区内を流れる柏尾川に架かるこの橋、名前はズバリ 『大橋』 、別名 吉田橋と言われています。
歌川広重が描いた戸塚宿の浮世絵、右側に見えているのが大橋です。こうして浮世絵と現在の様子を見比べるのも、東海道の旅の楽しみです!現在の橋は、欄干に戸塚宿を描いた浮世絵が飾られ、街灯は大名行列が持つ毛槍(けやり)をイメージした形になっています。東海道の旅気分を盛り上げてくれるステキな橋ですね!

戸塚八坂神社

お天王様と地元で親しまれている八坂神社。毎年7月14日に行われる「お札まき」は、江戸時代から続く伝統行事で、横浜市の無形民族文化財に指定されています。氏子の男性が女装して、歌い、踊り、ご利益があると言われるお札をまきながら練り歩くんですって。楽しそう! でも、昨年はコロナの影響で中止だったそうです。今年はぜひできると良いですね!

冨塚八幡宮

冨塚八幡宮は、平安時代、源頼義、義家親子が、奥州で起きた戦の平定に向かう途中、この地で陣を構え、ある夜、夢の中で応神天皇と富属彦命から御神託を受け、その加護によって戦功を立てる事ができたのに感謝をして造営されました。

遊行寺坂

現在は、土を掘り下げたことで緩やかな坂になっていますが、江戸時代はかなり急坂だったそうです。
この絵は、14代将軍家茂の上洛にちなむ東海道シリーズで「上洛東海道」と言われているものの一つです。遊行寺坂上から大鋸橋、現在の遊行寺橋まで続く、行列の長さが現れています。

清浄光寺

一般には「遊行寺」の名で親しまれていますが、正式名称を藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさん むりょうこういん しょうじょうこうじ)という時宗の総本山です。「遊行」とは僧侶が修行のため全国を巡り歩くことをいい、時宗の法主を「遊行上人」と呼ぶことから遊行寺という通称があります。