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【第10話】偉人!怪談!魔女も登場!?平塚・大磯篇

第10話は平塚宿から大磯へ!

小田原北条氏の城郭から発展した平塚宿の名所を巡り、次なる宿場 大磯宿へ。
明治時代を築いた数々の偉人が過ごした大磯には、人々が愛した海辺の原風景が広がっていました。
平塚八幡宮の門前町として栄えた平塚宿-
あの怪談『番町皿屋敷』の悲劇のヒロインお菊の塚を発見。
眼前に海が広がる大磯宿-
海援隊で龍馬のブレーンとして活躍した中島信行や
『初恋』の詩で有名な文豪 島崎藤村、
キリスト教の教育者 新島襄など、明治の偉人の余韻が残されています。
緑豊かな山々から、海を望む美しい浜、その豊かな自然から“湘南”と名付けられました。
現代でも様々な映画やドラマ、漫画、音楽などのモチーフにもなり、
多くの日本人を魅了している“湘南”は、まさにこの地から始まったのです。
日本初の海水浴場も、大磯海岸から発祥しました。
そして、本企画プロデューサーのイデイたんのお家でお泊り会!
イデイたん初登場の第1話も併せてご覧ください!

平塚宿

相模川にかかる馬入橋を渡ると、間もなく平塚宿。ここ一帯は、小田原北条氏が築いた城郭から発達しました。しかし、規模が小さく、隣の大磯宿とも約半里と近かったため、旅人の宿泊は少なかったといいます。それでも宿場の人々は「大磯は、あの高麗山を越えなければいけません。これから越えるのは大変です。」と言葉巧みに無理やり宿泊させたのだそうです。

相模國一國一社 平塚八幡宮

現在の国道一号線沿いにある平塚八幡宮は、歴代の天皇や、源頼朝公をはじめとする武士から多くの崇敬を集めましたが、戦国時代の戦乱によって、社殿や社宝はすべて焼失。その後、徳川家康によって復興されると、門前には東海道が通り、相模川の河口にある港・須賀への道と交わったことで、平塚は商業地として栄えました。

あの怪談がここに… お菊塚

あるお屋敷に仕えていたお菊は、あるとき主人お気に入りのお皿を失くしてしまい、井戸に投げ込まれてしまいました。冤罪で殺されてしまったお菊の怨念が幽霊となって夜な夜な井戸から現れたそう。この伝承が怪談『番町皿屋敷』として有名になりました。

先人の知恵! 街道沿いの並木

江戸幕府は、五街道の整備に伴って街道沿いに並木を植えることを命じた。それには、もっともな理由があった。暑い夏には木陰をつくって直射日光を避け、冬は吹き付ける冷たい風や雪から守る。さらに道標としての役割もあり、旅人にとっても有意義なものだった。海沿いには松を、山間部などの冷涼な地には杉を植えるなど、その土地の自然環境に適した樹木が植えられた。

海援隊員が眠る 大運寺

大運寺は、増上寺の末寺として江戸時代に開山。本尊に祀られている阿弥陀如来坐像は町の指定文化財です。また境内には海援隊に入り、龍馬の寵愛を受けた高知藩士 中島信行が眠るお墓があります。

坂本龍馬の右腕 中島信行

土佐藩の下級武士の家に生まれた中島信行。武市半平太の土佐勤王党に加盟した後、海援隊に入り龍馬のブレーンとして大いに活躍した。明治維新後も、判事や県令、元老院議員など数々のキャリアを務めた。自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由与党結成に参加して副総理となり、第一回帝国議会では初代衆議院議長に選出された。

明治の文豪 島崎藤村

信州木曽の中山道馬籠宿の本陣や庄屋、問屋を務める家に生まれた島崎藤村。彼もまた宿場に生まれ育った。大学を出た後、雑誌『文学界』に参加する。ロマン主義詩人として初恋に代表される詩集『若菜集』を出版。その後、小説に転じ『破戒』『春』などで自然主義作家となった。父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』なども有名である。晩年は大磯に移り住み、71歳でその生涯を閉じた。

新島襄と妻・八重

江戸末期、密かに渡米した新島襄。キリスト教の洗礼受けた彼は、帰国後、京都で同志社英学校を設立した。この時の縁で、後の妻・八重と出会う。

湘南発祥の地 大磯

今も昔も変わらず、多くの人々を魅了する“湘南”。その“湘南”という呼び名の発祥は、この地と言われています。時代をさかのぼること江戸初期。小田原にいた崇雪という人物が、大磯の地に居を構えました。その際、中国湖南省の景勝地湘南に似た美しい景色を見て、標石の裏に「ああしょうなんせいぜつち」と刻んだのです。その言葉はまさに、「清らかですがすがしく、このうえもないところ、湘南とはなんと素晴らしい場所」という意味。これが湘南のルーツとされています。

日本初の海水浴場 大磯海岸

1885年(明治18年)、大磯の地に日本初の海水浴場が開かれました。しかし、当時の海水浴の様子は現在とは少し異なっていたようです。というのも、当時西洋医学を学んでいた松本良順が、海水浴の効能を知り、予防医学の観点から普及したのが始まりだそう。つまり、潮湯治の側面が強かったのです。その後、横浜に住む外国人によってレジャー文化が広められて、現在のような行楽としての海水浴のスタイルが浸透していきました。