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【第13話】五十三次最難所!! 箱根越えを目指す!!

第13話は大磯を飛ばして箱根宿篇!

温泉街として有名な箱根湯本から出発し、五十三次最難所とも名高い箱根越えを目指します。
一歩そこに足を踏み入れれば、箱根ならではの緑豊かな大自然に身体中に感じられる…
のもつかのま、岩肌を露出した山々や険しい坂道の連続。
はたして無事に箱根を超えられるのでしょうか!?
江戸時代交通史の重要な遺跡の復元施設や箱根飯など、今回も見どころ満載です!
「箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず」
意味:箱根の山は 天下有数の険しい難所 中国の関所・函谷関さえ比べ物にならない

箱根湯本

箱根の玄関口の一つである箱根湯本は、小田急線箱根湯本駅に隣接しており、箱根エリアにある20の温泉街の中で最も歴史が古く、最も大きな温泉街です。旅館や共同浴場、土産店がひしめき合い、箱根駅伝のコースにもなっている
現在の国道1号線に比べて、その裏手に並行する旧東海道は、少し落ち浮いた雰囲気の温泉街になっています。」

白山神社

江戸時代の中期以前の創建とされる白山神社は、当時「白山権現」と呼ばれ、温泉の守護神として地元の人々から崇められていました。歴史を感じさせる佇まいですね。旧街道にある分ひっそりとした印象で、中々味がありました。

早雲寺

北条早雲の子、氏綱が創建したと伝わっており、後北条氏5代のお墓があります。豊臣秀吉の小田原征伐の際には、一時的にここに本陣が置かれたそうです。

箱根の名産寄木細工

寄木細工は、元々は静岡で発展した技術でしたが、江戸時代に、箱根の豊富な種類の木々が着目され、色味や木目が違う木々を寄せて作る幾何学模様の箱やお盆が箱根の寄木細工の始まりだとも言われています。旧東海道の要衝であり、多くの旅人が行きかう中で、美しい幾何学模様の箱根寄木細工は、お土産物として次第に名産品化し今日に至っています。

甘酒茶屋

江戸時代初期より続く、400年の歴史を持つ茶屋。天下の難所、箱根街道の中腹にあり、東海道を旅する人の休息場所として大変繁盛し、旅行経験の無い江戸市民にも、高い知名度を誇っていたとか。
と言うことは、きっと龍馬も立ち寄っていたことでしょうね。砂糖を一切使わず、麹の発酵だけで自然の甘さを引き出す製法は現在も引き継がれており、今でも箱根を旅する多くのハイカー等で賑わっています。

箱根旧街道

箱根旧街道は、小田原宿から三島宿までの旧東海道を指します。東海道でも最難所と言われた箱根の険を越えるため、東海道が整備された江戸初期は、ひとたび雨が降ると、酷い悪路となって通行に支障が出たため、箱根竹を敷くなどしていましたが、あまり効果が上がらず、結局は石畳を敷くようになったそうです。現在でも所々当時の石畳や、石畳を再現した箇所があり、往年の東海道の面影を偲ばせてくれます。
それにしても、石畳の峠道は、現代の運動靴でもカナリしんどかったけど、当時の人は草鞋でここを歩いてたなんて、改めて驚きですよねー。

芦ノ湖

主に湖底からの湧水を水源とする湖。湖畔を中心に、観光名所やリゾート施設が数多く点在する、箱根の中心地的な観光地で、富士山を大きく望める景勝地としても名高いんです。

箱根旧街道の杉並木

江戸幕府の街道整備では、夏の厳しい日差しや、冬の寒風を遮り、また落ち葉や積雪で街道そのものが隠れてしまった時の道標等として、街道沿いに並木を設けました。その樹種は、海沿いなら松、山間部なら杉といったように、地域ごとに適したものが選ばれましたが、ここ箱根でも杉並木が整備されていました。
現在では、その大半が伐採されてしまいましたが、この元箱根エリアには約500mに渡って当時の杉並木が残されており、今や樹齢400年近い巨木となった堂々とした杉並木を、今に伝えています。

箱根の関所

1619年に江戸幕府によって芦ノ湖畔の東海道に設置された関所。「入り鉄砲と出女」と言われたように、幕府は江戸に入る鉄砲と、江戸から出る女性に対して、厳重な監視体制を取りましたが、箱根の関所は、主に出女への取締りを主務としていました。なぜ、江戸から出る女性を監視したのか?それは、江戸屋敷に人質として置かれた妻女が、脱出して領国へ逃げ帰るのを防止するためだったそうです。
江戸から出ようとする女性の旅には、女手形という公文書の形態が義務づけられ、旅の目的や行先、人相、素性なども書き記されていました。箱根の関所では、特に厳しい取り調べがあり、人見女という女性監視員が常駐し、髪の毛の質から身体的特徴、ほくろの位置、妊娠の跡なども厳しく吟味されてたそうです。
箱根の関所は明治維新により廃止となりましたが、1983年に発見された古文書により、その実際の姿が明らかになり、発掘調査を経て、2007年には復元された箱根関所が全面公開されました。

関所破り

関所破りとは、街道にある関所を通らず、抜け道や山道などを利用して、関所の検問を回避して通行することをいいます。
関所破りで捕まると、江戸時代の刑罰では最も重たい磔の刑に処さられるほどの重罪だったのです。