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【第12話】 難攻不落の小田原城を攻め落とせ~!

第12話は小田原宿!

かの戦国武将、上杉謙信や武田信玄も攻略できなかった難攻不落の小田原城に潜入。天守閣に登れば、眼下に相模湾を一望する絶景が広がっていました。壮年の二宮金次郎、小田原ゆかりの文学館、かまぼこのテーマパーク、600年以上の歴史を持つ「ういろう」・・・さすが東海道屈指の城下町!小田原宿は見どころが尽きません!グルメも充実!ビールと一緒にいただく「かまぼこのピンチョス」に、国の登録文化財に指定されているお店の「海老天&お刺身」ゆぴの食レポが、今回も冴えわたります?そして旅のハイライトは、ゆぴの長台詞チャレンジ!バスガイド時代に覚えたという歌舞伎十八番「外郎売」の長台詞を、はたして噛まずに最後まで読み切れるかぁ~!?日頃の滑舌トレーニングの成果に乞うご期待!!

JR鴨宮駅

来る時に通った、JR「鴨宮(かものみや)駅」は、新幹線の発祥地。当時、鴨宮に新幹線の試験基地が作られ、日本で初めて試験走行を行ったのだそうです。

小田原宿

日本橋から数えて9番目の宿場 小田原宿は、北条氏の城下町であり、領主の居城である小田原城を中心に町が整備されました。本陣と脇本陣が4軒ずつあり、これは東海道53宿の中で最も多く、庶民が利用した旅籠は、江戸後期の天保年間には100軒を超えていたそうです。町人町には食べ物屋、雑貨屋、衣料屋、魚屋などを生業とする商人の家が建ち並び、城下は活気に満ちていました。

清水金左衛門本陣跡

小田原宿に4軒あった本陣のうちの筆頭で、尾張徳川家や九州の島津家、細川家などの大名家が定宿にしていました。明治天皇は明治元年1868年10月8日の御東行の際をはじめ5回も宿泊されました。現在、本陣跡には「明治天皇小田原行在所址」 と刻まれた碑が立てられています。

小田原宿なりわい交流館

市民や観光客の憩いの場、交流の場として2001年にオープンしました。建物は昭和7年に作られた旧網問屋を利用したもので、江戸時代から続く小田原の伝統的な商家の建築方法である「出桁造り」が用いられています。2階正面は出格子窓になっており、昔の旅籠の雰囲気を醸し出しています。

伊藤博文と坂本龍馬

1864年、下関を通過する外国船を砲撃した長州藩は、その報復として諸外国から攻撃され、さらに長州藩が御所を襲った「禁門の変」に対する幕府からの報復攻撃も受け、危機的状況に陥っていた。翌1865年、幕府による二度目の攻撃、いわゆる第二次長州征討に備えるため、長州藩は、西洋式武器の増強に迫られていた。 藩に武器の調達を命じられた伊藤博文は、親交のあった坂本竜馬を頼り、竜馬は、長州藩を監視する幕府の裏をかいて、薩摩藩名義で長州藩の武器を購入し、一方、兵糧米が不足していた薩摩藩に対して長州藩が米を提供するという策を取りまとめた。そして伊藤は、龍馬の仲介により、薩摩藩が長崎のグラバー商会から購入した軍艦と銃を手に入れることに成功したのである。
この武器のおかげで、長州藩は、兵力で圧倒的に上回る幕府軍から起死回生の勝利をおさめた。 この第二次長州征討は、幕府の衰退を象徴する戦いとなり、この後、薩長同盟が結ばれ、倒幕への流れが一気に加速することになったのである。
後年、伊藤博文は竜馬についてこう語っている。 「坂本龍馬は壮年有志の一個の傑出物であって、
彼方へ説き、此方へ説きして、何処へ行っても容れられる人間であった」、と。

小田原文学館

小田原文学館は、芥川賞作家の尾崎一雄など、小田原ゆかりの作家の作品や資料が展示されていますが、もとは田中光顕の別邸でした。田中光顕は1843年、土佐藩に産まれ、土佐勤王党に参加しますが、弾圧が始まると土佐藩を脱藩し、長州藩を頼って陸援隊に参加します。坂本龍馬、中岡慎太郎の暗殺現場に一早く駆けつけ、中岡死後の陸援隊を統率。維新後は陸軍中将、宮内大臣などを勤めました。

難攻不落の城 小田原城。

小田原城は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏によって15世紀中頃に築城された。 15世紀末、当時駿河・今川家の家臣であった北条早雲が、関東で理想の国家を作ろうと、大森氏を退け、小田原城を奪った。以後、北条氏は100年にわたって小田原城を拠点に勢力を伸ばしていく。三代目・氏康の時代には城下町の形態が整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄した。永禄4年(1561) 越後から上杉謙信が襲来、永禄12年(1569)には武田信玄が小田原城を包囲したが、いずれも攻め落とすことができず、小田原城は難攻不落の城として、その名を世に知らしめたのである。
しかし天正18年(1590年)天下統一を目指す豊臣秀吉が、20万の大軍を率いて小田原城を包囲した。簡単には小田原城を攻め落とせないと分かっていた秀吉は、北条氏を心理的に圧迫するため、小田原城から3km離れた場所に城を築いた。有名な石垣山一夜城である。城が完成してから周囲の木を切り倒すことで、一夜にして城が出現したように見せたことから一夜城と言われた。そして3ヶ月余におよぶ籠城戦の末、小田原城は開城され、ここに北条氏は滅亡したのである。

報徳二宮神社

小田原の偉人、二宮尊徳翁をお祀りした神社です。二宮尊徳翁こと二宮金次郎と言えば、多くの人は、薪を背負い、本を読む勤勉な少年のイメージしかないと思います。でもじつは金次郎は、荒廃に苦しむ農村の復興を手掛けた財政再建のアドバイザー、あるいは村人の努力を喚起し復興に導く指導者として活躍しました。生涯に立て直した村の数は615にも及びます。報徳二宮神社には、少年の二宮金次郎と、大人の二宮尊徳翁の2つの像があります。

ういろう

「ういろう」と言えば、小豆を使った和菓子を想像する人が多いと思いますが、小田原には「薬のういろう」があるんです。「薬のういろう」は、中国から伝わった漢方薬で、正式名を「透頂香(とうちんこう)」と言います。「透頂香」は、こちらの外郎家(ういろうけ)が、600年以上前の室町時代から代々伝わる製法を守り、作り続けている一子相伝の家伝薬なんだそうです。腹痛、下痢、悪心、嘔吐、咳など様々な効能があり、 「外郎売(ういろう うり)」という歌舞伎の演目があるほど、昔から人々に愛用されてきました。
一方、「お菓子のういろう」は、外郎家が朝廷に仕えていた時代に、国賓のもてなし菓子として創作したのが始まりだとか。「ういろう」って、もともとは由緒ある家名のことで、600年以上の歴史があり、しかも、ここ小田原が元祖だったんですね!

鈴廣かまぼこ博物館

小田原の名物と言えばかまぼこが有名ですが、なかでも鈴廣かまぼこは創業150年以上続く人気ブランドです。ここ鈴廣かまぼこ博物館は、かまぼこの試食、販売はもちろん、かまぼこ作り体験やミュージアムなど、食べて、学んで、遊べる、まさに“かまぼこのテーマパーク”!