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【第11話】松並木と海を愛する女の大磯参り

第11話は大磯宿から小田原へ!

海をこよなく愛するゆぴ。ついたあだ名は「海ちゃん」。今回は相模湾を横目に見ながら、海ちゃん16キロの長丁場に挑みます。前回の第10話に引き続き、大磯宿からスタート。大磯は「政界の奥座敷」と言われただけあり、日本の政治をけん引した偉人たちの邸宅が今も大切に保存されています。坂本龍馬の盟友・陸奥宗光の別邸跡、戦後の内閣総理大臣・吉田茂の邸宅を巡ります。文豪・島崎藤村が静子夫人と晩年を過ごした邸宅も、質素だけれど素敵な住まいでした。大磯ロングビーチを過ぎたあたりから、ついに海の誘惑に負けた海ちゃん。まだ先は長いというのに、撮影スタッフを置き去りにして、ひとり海へ向かうのであった…

旧島崎藤村邸

作家・島崎藤村が晩年の2年余りを過ごした邸宅です。
昭和16年1月、藤村が大磯の伝統の火祭り・左義長(さぎちょう)を見物した際、大磯の温暖な気候を気に入り、その翌月この家に移り住みました。
もとは大正後期から昭和初期にかけて建築された町屋園と呼ばれる貸別荘を、藤村が買い取ったのだそうです。
静子夫人との穏やかな暮らしが始まったのもつかの間、2年後の昭和18年8月、藤村は小説「東方の門」を執筆中に脳溢血に倒れ、「涼しい風だね」という言葉を最後に、71年の生涯を閉じました。

統監道

この道は、統監道(とうかんどう)と呼ばれ、初代内閣総理大臣・伊藤博文ゆかりの道です。明治38年、日本と韓国の間で第二次日韓協約が締結され、漢城(かんじょう)現在のソウルに統監府が設置されました。伊藤博文が初代統監に就任し、このあと訊ねる博文の別邸・滄浪閣(そうろうかく)と大磯駅との往来にこの道を通ったことから「統監道」と呼ばれるようになりました。

明治記念大磯邸園

大磯は、伊藤博文をはじめ8人もの内閣総理大臣経験者や著名な政治家が居を構えたことから、「政界の奥座敷」と言われました。明治記念大磯邸園は、そんな明治期の立憲政治の確立に貢献した先人の業績を後世に伝えるために作られました。
園内には、伊藤博文の別荘だった旧滄浪閣や、内閣総理大臣を務め、早稲田大学の創立者でもある大隈重信の別邸などの歴史的建造物が保存されています。
残念ながら伊藤博文の旧滄浪閣は整備中のため、見ることはできませんでしたが、2020年度から第1期開園として、旧大隈重信別邸と陸奥宗光(むつ むねみつ)別邸跡が公開されています。

陸奥宗光と坂本龍馬

陸奥宗光(むつ むねみつ)は紀州藩士の六男として産まれ、14歳で江戸へ留学。ここで坂本龍馬と出会う。龍馬の仲介で神戸海軍操練所に入るも、傍若無人な性格でなかなか周囲と馴染めなかったが、龍馬だけが唯一の理解者だったという。陸奥はその後も龍馬と行動を共にし、海援隊では測量官を務めながら隊の経営プランを龍馬に提案。これが高く評価され、海援隊の経営を任されるようになる。
龍馬いわく。「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」。
陸奥は、第二次伊藤博文内閣では外務大臣として諸外国との不平等条約の改正に辣腕を振るい、大きな功績を残したのである。

旧吉田茂邸

戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂の邸宅です。明治17年に吉田茂の養父(ようふ)健三が別荘として建てたもので、吉田茂が終戦間際の昭和19年頃から、その生涯を閉じる昭和42年まで過ごしました。当時、ここには多くの政治家が訪れ「大磯参り」と言われていました。

大磯ロングビーチ

この近くに、巨大な屋外プールで有名な大磯ロングビーチがあります。
大磯ロングビーチは、1957年、西武鉄道グループの元オーナーである堤 義明が、早稲田大学時代に書いた卒業論文を基に造られました。論文のテーマは「海岸沿いの巨大プール」。
海水浴は泳ぐよりも日焼け目的の人が多いから、海沿いにプールを造れば、海辺での日光浴とプールでの遊泳が一緒に楽しめるので集客可能だ、という内容だったそうです。目の前に海があるのにプールを造っても集客などできないと、事業化にあたり猛反対する人も大勢いたそうです。しかし結果は大成功。プールの先に海が広がる、これまで見たこともないロケーションの良さから大人気のレジャースポットになりました。

松屋本陣跡

このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、宿と宿の間が16キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川(さかわがわ)といった難所を控えていることから、間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられました。
旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて大変賑わっていたそうです。その中心的な存在が「松屋本陣」。参勤交代の諸大名、宮家、幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。

酒匂川の渡し

東海道中の難所の一つ、酒匂川。古くは船渡しが行われていましたが、延宝2年、1669年に船渡しが禁止され徒渉(かちわたり)制が施行されると、旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなりませんでした。
雨が降り続き、水深が胸あたりになると、川留めとなり、旅人は付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待ちわびたそうです。