【第44話】江戸の町並みがそのまま!? 関宿散策!
第44話は、関・坂下宿を練り歩き!
参勤交代や、お伊勢参りで賑わった宿場町は
今も歴史的な建物が立ち並んでいて素敵だったなぁ~
のどかな風景を見ながら一休みしていたいのですが
いよいよ次回は鈴鹿峠に突入!
みなさん応援お願いしま~す!笑
関の山車会館
2019年にオープンした関の山車会館では、関宿に伝わる山車や祭りの歴史・文化を
知ることができます。今までは関宿祇園夏祭りでしか見られなかった迫力ある山車
や、関宿の祭りに関する歴史資料が保存・展示されています。
祭囃子などの伝承活動の拠点とするため、敷地内は、主屋や土蔵、山車の収蔵展示
棟などが関宿の景観にあわせて整備されています。
伊藤本陣跡
伊藤本陣の祖先は、この宿場町の町づくりに貢献した人物。残されている主屋は、
主人の住まいであり、大名行列に必要とされる物資を置いたり、警護役の控えとし
ても使われていたようです。
関の小万
関の小万とは日本舞踊で人気の長唄で、女の身ながら父の仇討ちを果たした「小万」
の物語です。九州久留米の有馬氏の剣道指南役であった牧藤左衛門は同輩の小林軍
太夫に恨みを買い、殺されてしまいます。牧藤左衛門の妻は身重ながら仇を討とう
と旅に出ますが、鈴鹿峠を越えたところの関宿山田屋で力尽き、一人娘の「小万」
を産んでまもなく命を落とします。山田屋の主人は亀山藩に頼んで小万に武芸を習
わせ、1783年、遂に父の仇と巡り会えた小万は、馬子に扮して待ち伏せし、見事仇
討ちを果たしました。
「関の山」の由来
関宿の夏祭りを彩る山車が大変立派であったことから、「これ以上のものはない」
という意味でわれるようになった慣用句が「関の山」。現代でも使われる言葉やも
ののルーツを実際に見ることができるのも、旅の醍醐味ですね!
関まちなみ資料館
建物自体が江戸末期に建てられた町家。 江戸時代の暮らしや関宿の町並みの移り
変わりなどスタッフの方がいろんなことを教えてくださるので楽しくお勉強でき
ます!
関宿
東海道、47番目の宿場町。参勤交代や、お伊勢参りの人々で賑わったこの宿場町は、
その街並みが今もなお多く残されており、1984年に国の重要伝統的建造物群保存地
区に指定されました。保存地区内にある約400棟のうち江戸時代後期から明治時代に
かけての町屋が200棟以上あり、保存修復工事を続け、また、新しい建造物について
も、周囲の町並みと調和するよう働きかけを続けています。 フォトジェニックなス
ポットとして、国内外の観光客にも人気なエリアとなっています。
関郵便局
関の町並みの景観に合わせた、かわいらしい造りになっています。ポストは東京の
博物館に所蔵されている日本最古のポストを模して作成したもの。明治初期、郵便
創始あたりのポストは江戸時代の目安箱に似た木製の箱で、「書状集箱」と呼ばれ
ていました。
坂下宿
東海道五十三次の48番目の宿場町。東海道の難所の一つでもある鈴鹿峠を控えた
参勤交代の大名家や旅人の宿泊も多く、江戸時代後半には本陣3軒、脇本陣1軒、
旅籠48軒が軒を連ね、東海道でも有数の宿場町として賑わいました。この地に伝
わる民謡、「鈴鹿馬子唄」でも「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」と
唄われました。坂下宿の本陣・大竹屋に泊まるのは無理だが、せめて脇本陣の小
竹屋に泊まってみたい、という意味です。
シーボルトと坂下宿
1826年に長崎オランダ商館医師シーボルトが江戸へ向かう途中、坂下でオオサン
ショウウオを手に入れ、オランダへ持ち帰り、約50年生存しました。シーボルト
著作『日本動物誌』にはそのオオサンショウウオとされる図版が掲載されています。
岩屋観音
元禄時代、旅人の道中安全を願って岩の断崖をくりぬき、阿弥陀如来、十一面観音、
延命地蔵の石像三体が安置されています。