【第46話】50番目の水口宿に突入! ゆぴ栗毛いよいよ佳境に!
第46話は、水口宿! 三筋通りに二つの城跡! 景色もサイコー!
ついに50番目の宿場に突入です!
水口宿は、宿場町としては珍しい「三筋通り」が特徴の
現在でも江戸時代の文化が静かに息づくステキな宿場です
豊臣秀吉によって築かれた水口岡山城の本丸跡は
ちょっとした山登りルートなので徒歩で行くのはキツかったけれど
水口宿が一望できる素晴らしい眺めでした!
家康ゆかりのお寺あり、昭和初期のモダンな洋館あり
東海道の旅は、歴史をたどる旅でもあるんですね
「古い街道には、いにしえ人の気配があります。
その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります~」
司馬遼太郎先生の作品「街道をゆく」の一節が
ひしひしと心に染み入る旅でした!
垂水斎王頓宮跡 (たるみさいおうとんぐうあと)
斎王とは、天皇の名代として伊勢神宮の祭祀に奉仕するための皇女のこと。伊勢に赴く斎王の行列は、
数百名もの従者を伴った賑やかなものだったと伝えられています。平安時代(886年・仁和2年)に鈴鹿
峠を越える道が開通したことで土山を通るようになり、京から伊勢までの間 5カ所に斎王専用の宿泊
施設・頓宮が設置されました。
大野村
大野村は、土山宿と水口宿の中間に位置する間宿。幕府は本宿を守るために、間宿での宿泊を禁じて
いました。しかし、それは表向きで、本宿よりも安く泊まれる旅籠が存在し、旅人に重宝されていた
ようです。今でも旅籠跡が点在しています。
「街道を行く」の碑
『燃えよ剣』、『龍馬がゆく』などで有名な文豪・司馬遼太郎。亡くなる直前まで、25年にわたり
書き続けられた「街道をゆく」では東海道をこのように記しています。
『古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史が
あります。あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に
包まれたであろうこの道。東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中に
伸びています。』
歴史好き、旅好きには堪らない一冊ですのでぜひ読んでみてはいかがですか?
水口宿
江戸から数えて50番目の宿場町。豊臣秀吉によって水口岡山城が築かれ、江戸時代は水口藩の城下
町として発展しました。水口宿の特徴は3本の道が平行して走る「三筋通り」 。通りに沿って町並
みが形成され、現在でも旅籠町や呉服町といった旧町名が使われ、宿場町の文化が息づいています。
歌川広重の浮世絵には、水口宿の夏の風物詩「かんぴょう干し」
の様子が描かれています。
水口岡山城
1585年、豊臣秀吉の命により中村一氏が近江南部を支配するために築いた城です。東からの敵を
守る要衝で、遺構などから相当に大きな城だったことがわかりました。1600年、関ヶ原の戦いで
東軍勢に攻撃され落城…。徳川時代になると、3代将軍・家光が別の場所に新たに水口城を築城し、
廃城となってい水口岡山城の石垣が転用されと言われています。
三筋通り
三筋通りは、水口岡山城の築城に際し、城下町作りを行ったときに作られました。真ん中が東海
道で、両側に2本の通りが平行して走っています。往時のたたずまいを残す民家がいまも残ってい
て、ステキな町並みです!
水口曳山まつり
水口曳山まつりは、江戸時代中期に町民によって創り出され、町の繁栄と町民の心意気を示す
お祭りです。豪華な曳山が町を巡行し、曳山の中で奏でられる力強い水口ばやしがお祭を盛り
上げるんだそうです。見てみたいな~!
大岡寺
古城山の麓にある天台宗の寺院で、岡観音の名で親しまれています。鴨長明や一条兼良が宿泊
したといわれ、境内には松尾芭蕉が水口で旧友と再会したときに詠んだといわれる句碑が建て
られています。お寺の付近は「大岡寺の桜」として花見の名所になっています。
旧水口図書館
近江八幡に活動の拠点を置いたアメリカ人の建築家・ヴォーリズの設計で昭和3年に建てられ
た洋館建築です。平成13年に国の登録文化財建造物に登録ました。
大徳寺
開山の栄誉住職が、徳川家康の幼児の学問の先生だったことから、家康は、家康の「家」の字
と松平の「松」の字をとって「家松山」の山号を賜り、のちに大徳寺の寺号や香木、寺領を寄
進しました。
水口城
1634年(寛永11年)、三代将軍・家光が上洛に先立ち、水口に専用の宿館として築城されました。
維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されましたが、本丸の敷地は保存され、現在は
復元された矢倉が資料館となっています。