【第17話】 江戸風情に大正ロマン!蒲原で建築探訪!
第17話は、蒲原宿へ!
いまだ謎が残る歌川広重の「蒲原宿夜の雪」の舞台 蒲原宿へ
富士市の西に位置する蒲原を知らない人も多いのではないでしょうか。
しかし、歌川広重の「東海道五十三次」の中では最高傑作とも称される
「蒲原宿夜の雪」の舞台でもあるんです。
江戸時代の3階建ての土蔵や、塗り家造りに、蔀度といった日本建築から
和洋折衷の大正ロマンの洋風建築など、
たくさんの名建築が残されています。
旅を夢みた人々
日本初の旅行ブームはおよそ200年前、江戸時代後期に起こった。当時、身分を問わず人々の移動が制限されていた江戸時代。しかし、神社仏閣への参詣や治療のための旅であれば許された。それにかこつけて、人々は参詣のため、湯治のためと言い、物見遊山に出かけていった。そのきっかけは言うまでもなく、十返舎一九が書いた『東海道中膝栗毛』や、歌川広重が描いた『東海道五十三次』であった。今と違って情報が簡単に手に入らない時代に、本や浮世絵が世に広まり、人々は見知らぬ土地に思いを馳せ、珍しい食べ物や、美しい景色に憧れたのだろう。
蒲原宿
江戸から数えて15番目にあたる宿場町。旧東海道沿いを中心に、江戸時代特有のなまこ壁のお屋敷や、大正ロマン感じる和洋折衷のモダン様式の建築物が混在していて、時代の移ろいを感じることができます。そしてもう一つ、蒲原宿を舞台にした歌川広重の浮世絵『蒲原 夜之雪』。深々と雪の降る静かな夜を見事に表現しており、東海道五十三次の中でも最高傑作とされています。しかし、温暖で滅多に雪なんて降らない東海地方の雪景色をなぜ描いたのかはいまだに謎だそうです。
3階建てだった 渡邉家土蔵
江戸時代に問屋を務めた名家である渡邉家。材木を扱っていたことから木屋という商号で呼ばれていました。また、このような3階建ての土蔵は他に例があまりなく、上に行くにつれて次第に狭くなる「四方転び」という建築技法が用いられています。今も全国各地に残っている土蔵ですが、その中でも5番目に古い土蔵建築です。
なまこ壁と塗り家造りの家
佐野屋という商屋でした。この「塗り家造り」というのは、その名の通り漆喰を塗っているため、先ほど立ち寄った渡邉家土蔵の「土蔵造り」に比べて壁の厚みがなくても、防火性能に優れているのです。費用を惜しまない贅沢な建築工事「贅沢普請」と呼ばれました。
国の有形文化財に残る 吉田家住宅
こちらは昭和時代まで和菓子の製造販売を行っていた吉田家住宅で、建物は明治20年の建築だそうです。国の有形文化財に登録されています。江戸時代からあったとしたら、きっと龍馬もここで売られていた和菓子を食べたかもしれませんね…
大地震を耐え抜いた 旧和泉屋
江戸時代 天保年間に建てられた旅籠 和泉屋は、江戸末期の安政の大地震をも耐え抜き現存しています。現在は左側4間が個人の住宅、右側2間がお休み処として公開されており、国の登録有形文化財に指定されています。
蒲原宿 平岡本陣跡
蒲原宿の西本陣、平岡本陣跡に到着しました。土蔵も残っていて、立派な佇まいに圧倒されます。こちらの邸内には大名駕籠をおろした「お駕籠石」が残っているらしいですよ。
大正ロマンが香る 旧五十嵐歯科医院
古い町家を大正3年に歯科医開業とともに改築した洋風建築です。ガラスと下見板をはめ込んだ独特なデザインで、軒蛇腹や軒下の歯型飾りなど意匠を凝らした造りになっています。和洋折衷の大正ロマンを感じる史跡です。
趣向を凝らした名建築 志田邸
安政の大地震の後に再建された江戸時代の元商屋です。「やま六」という屋号の醤油屋さんでした。こちらに用いられている「蔀度」という建具は、外から中は見えにくく、中から外はよく見えるのです。そして夜になったら板を下ろして雨戸のように、戸締りの役割も果たします。「窓」「カーテン」「シャッター」の三役を備えた万能の機能です。まさに先人の知恵が垣間見える建造物です。
由比宿
江戸から数えて16番目の宿場。名勝・薩埵峠の東にあり、峠を越える手前に置かれていました。歌川広重が「由井」と題して描いた薩埵峠から望む富士山と駿河湾は、今も変わらぬ絶景です。
紀州と江戸を結んだ 御七里役所
御七里役所は、その名の通り約七里ごとに置かれた連絡所のことです。徳川御三家のひとつ紀州徳川家が、幕府の動向をいち早く知るために江戸から和歌山までの23か所に設置しました。その業務に従事した飛脚は御七里衆と呼ばれ、通常でも8日、臨時の急便は4日足らずで到着したといいます。