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【第2話】品川宿の歴史に隠された謎を解明!

第二話お待たせしました!

日本橋から東海道五十三次の旅がはじまり、第一の宿場品川宿へ
JR品川駅周辺とは一味違う宿場町は、まさに人情に厚い江戸の下町!
江戸のおもかげを残す旧街道を旅して、歴史の深い史跡や学べるスポットを発見しました!
あの新選組が宿泊した宿や浪士が密会した地など、日本史の教科書で学んだあれこれが品川に
たくさんの驚きや発見!充実の旅模様をお届けします!

江戸時代の遊郭

遊郭とは、政府の許可を得た遊女屋を集め、江戸幕府の管理下において運営された区域を指す。古くは、遊女は自由業とされ、決まった場所で営業することがなかったが、室町時代後期より取り締まりが厳しくなっていった。江戸時代に入ると、幕府の都市政策の一環として権力の統制と保護を受けながら遊郭が築かれていった。その目的は、風紀統制や徴税強化にあったと考えられている。特に大阪の新町遊郭、京都の島原遊郭、江戸の吉原遊郭は三大遊郭と言われるほどの隆盛を極めた。

有名事件の計画がここで? 土蔵相模跡

土蔵相模は、遊郭として繁栄を誇った品川宿のなかでも有数の規模を成す女郎屋でした。幕末の志士である高杉晋作や伊藤博文らの会合場所としてもその名が知られています。1860年、登城中の大老 井伊直弼が水戸藩浪士と薩摩藩士に暗殺された「桜田門外の変」の前日には、襲撃組の浪士たちがここで訣別の宴を催しました。その後も、1862年、攘夷実行のため英国大使館を焼き討ちにした高杉晋作らが、実行前に謀議を重ねるなど、土蔵相模は多くの歴史的人物が足を運んだ場所でもあるのです。もしかすると、あの坂本龍馬もこの相模土蔵に足を踏み入れていたのかもしれませんね。

品川駅の南に北品川駅がある不思議

今、私たちが歩いているこの付近 品川区北品川一丁目には、京浜急行電鉄の北品川駅があります。1904年に品川駅として開業し、1925年に北品川駅に改称されたのですが、皆さん「JR品川駅の南にあるのに、なぜ“北品川駅”」と不思議に思いませんか?実はこの北品川駅は旧東海道の品川宿の北側に位置しているため、この名が付けられているのです。では、そもそもJR品川駅を品川宿の中心地に設けなかったのは、なぜなのでしょう。その訳は、住民の反対にありました。由緒ある品川宿に黒煙を巻き上げて走る得体の知れない列車が通るなど、明治初期の時代には問答無用のことでした。そこで、品川の中でも少し北に離れた土地に設けることとなり、現在の品川駅の礎ができあがったのです。ところが、1871年の廃藩置県で品川県は廃止され、統合や合併を経て港区になりました。「北品川駅の北、港区にある品川駅」というのにもちゃんと理由があったのですね。ところで、JR品川駅といえばリニア中央新幹線の開通まで、あと6年。江戸-上方間がわずか67分でつながる時代の到来を、龍馬は想像すらできなかったでしょう。

宿場一の格式を誇った 品川宿本陣跡

日本各地の宿場には、大名や勅使などの休息・宿泊所として指定された本陣が置かれていました。本陣は宿泊施設のなかで最も格式高いもので、一般の者が泊まることは許されていませんでした。現在の品川宿本陣跡は、品川三宿(北品川・南品川・品川新宿)の中央に位置しており、1771年この場所に定着したのだそうです。1873年、宿場に関する制度が廃止された後は、警視庁品川病院となりましたが、現在は公園として整備されています。1868年に、明治天皇の東京行幸の際にご休息所となったことから「聖蹟公園」という名が付けられています。

徳川家康の戦勝を成就させた 品川神社

1187年に創建された神社。1600年には徳川家康が関ケ原の戦いへ出陣の際に戦勝祈願をしたそうです。その後も祈願成就のお礼として徳川家の厚い庇護を受けました。社紋も徳川家の家紋である「丸に三つ葉葵」と定められています。1975年には、赤坂氷川神社や日枝神社と並ぶ東京十社のひとつになりました。

人と歴史の交差点 品川宿交流館

ここ品川宿交流館は、旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会によって管理・運営されています。深い歴史と豊かな文化、そして厚い人情のある街「品川宿」を、後世に残したいという思いから設立されたまちづくり協議会は、情報発信プロジェクトや景観アドバイザー業務、宿場祭りなど、さまざまな交流事業を行っています。かつてのように、住む人と訪れる人々に交流が生まれ、新たな活力で賑わう宿場町を次の世代に受け継ぐために日々活動されているそうです。

新選組も御用達! 江戸幕府御用宿(釜屋跡)

江戸時代、ここ品川寺の門前にはお食事処である釜屋がありました。海を望む風光明媚な茶屋として諸大名に愛されていたこの釜屋は、次第に旅人の休息所としての役割から料理を振る舞う旅籠に発達し、幕府の御用宿になったのです。1868年には鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に引き上げてきた坂本龍馬の宿敵、新選組隊士が滞在したと言われています。

品川最古のお寺 品川寺

遠く806年~810年に創建された品川で最古とされる寺院。江戸城を築いた太田道灌によって伽藍が建立されました。第4代将軍 徳川家綱によって寄進された梵鐘はパリやウィーンの万博で展示された後、行方不明となっていましたが、スイス・ジュネーヴ市の美術館の所蔵から無事見つかり返還されました。1991年には品川寺からジュネーヴ市に梵鐘が寄贈されたことで、品川区はジュネーヴ市と友好都市となりました。

品川寺(ホンセンジ)と読む不思議

品川寺は、なぜ [シナガワテラ]と読まないのか、その不思議について少し調べてみた。すると、地名と寺院名が異なる場所は、浅草[アサクサ]と浅草寺[センソウジ]など、品川寺だけではなかった。その訳は、「訓読み」と「音読み」の違いにあるという。仏様を祀るお寺は、中国にルーツを持つ仏教信仰。つまり、漢字の読み方も中国に倣った「音読み」が使われることが多いそう。その証拠に、浅草寺の隣に浅草神社がある。日本古来の神様を祀る神社は、神道)であるため、読み方も日本古来の和語や大和言葉に倣った「訓読み」となることが一般的である。