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【第29話】徒歩の旅ついに愛知突入!!

第29話は、新居~白須賀の二宿を経て愛知県へ!

旅の舞台は湖西市。その名の通り浜名湖の西に位置する
静岡県最西端の町から、新居宿と白須賀宿をご案内します!
東海道でもっとも厳しい警備体制が敷かれていた新居関所を
なんとか無事に通過した“出女ゆぴ”
紀州徳川家の御用宿、芸者さんがいた楼閣
勇壮な手筒花火で知られる諏訪神社など
新居宿には見どころ&学びがたくさんありました!
続く白須賀宿では、静岡最後の難関・潮見坂にトライ!
広重も浮世絵に描いた、街道随一と言われる景勝地を堪能し
ついに、ついに、愛知県に突入だ~!

新居関所跡

慶長5年(1600年)徳川家康により創設された新居関所は、箱根の関所をし
のぐ最高の警備体制が敷かれ「入鉄砲と出女」を厳しく取り締まりました。
江戸時代中期に、自然災害によって2度の移転を強いられ、現在の建物は、
安政5年(1858年)に再建されたものです。ちょうど明治維新の10年前…
龍馬もこの関所を通って、京と江戸とを行き来したのでしょうね!

新居宿

江戸から数えて31番目の宿場町、新居宿。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後に
新居関所が設けられ、その翌年に新居宿が設置されました。浜名湖をはさんで
対岸にある舞坂宿との間に今切の渡しがおかれ、東海道の要衝のひとつとして
栄えました。本陣3軒、旅籠は26軒あったそうです。

旅篭紀伊国屋資料館

紀伊国屋は、徳川御三家の一つ、紀州藩の御用宿を務めた縁により、紀伊国屋の
屋号を掲げ、新居宿最大の旅籠として昭和戦後に廃業するまで約250年、旅館業
を営んできました。現在は、湖西市の指定文化財となり、江戸時代の風情を体感
できる施設として、当時の宿場文化を伝える資料が展示公開されています。

小松楼まちづくり交流館

大正から昭和初期まで芸者置屋や小料理屋を営んでいました。多い時で80人
ほどの芸者さんがいたんですって! 当時の芸者がお稽古に使用していた本や
三味線、写真等が展示されていて、当時の面影を存分に感じられました。

飯田武兵衛本陣跡

新居宿にあった3つの本陣のうちの1つです。江戸時代に行われた参勤交代
では約70家の大名が利用しました。明治元年と明治11年の明治天皇の行幸
の際には行在所として利用されました。

寄馬跡

江戸時代の宿場には公用の荷物や旅行者のために人馬を提供する義務があり、
東海道の宿場では常に百人の人足と百匹の馬が用意されていました。交通量が
多い時には助郷制度により、近在の村から人馬を寄せ集めて不足を補いました。
ここは、そうやって集められた人馬のたまり場だった場所です。

神宮寺

応永二年(1395年)仲翁和尚によって開山されたと伝えられるお寺です。
子育てと安産の観音様が祭られている観音堂があります。

本果寺

創建は1300年頃とも言われる歴史のある本果寺。境内の鐘撞や庭も見どころで、
山門には黒塗りで医王門と書かれた額が掛けられています。乗馬したまま通行
できることから武家用門と言われていたそうです。

諏訪神社

地域の氏神として古来より慕われている神社です。江戸時代より300年以上
続く行事「新居諏訪神社 奉納煙火祭礼」が毎年7月下旬に行われます。男
たちが一堂に次から次へと花火を抱え、火の粉が降りそそぐ中を笑いながら
練り歩く姿はほかでは見られない“海道の奇祭”として知られています。

旧東海道 新居宿 棒鼻跡

棒鼻とは駕篭の棒先の意味ですが、大名行列が宿場に入るとき、先頭(棒先)
を整えたことから、棒鼻と呼ぶようになったと言われています。

潮見坂

潮見坂は、西国から江戸へ向かう旅路で、初めて太平洋や富士山が見える場所
でした。歌川広重も遠州灘を背景に、潮見坂の風景を描いています。

白須賀宿

江戸から数えて32番目の宿場町。もとは潮見坂下にありましたが、宝永四年
(1707年)の地震と津波で被災したため、現在の坂上に移されました。本陣
1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、宿場としては中くらいの規模の宿場町です。

夏目甕麿邸跡・加納諸平生誕地の石碑

夏目甕麿は国学者で国学の普及に努めた人物。長男の加納諸平も紀州藩の命で
風土記の編さんにあたり、親子二代で日本文化の向上に貢献していました。

白須賀宿の火防

こちらは火防樹と言って、火事の延焼を食い止めるために植えられた槇です。
白須賀宿は民家が軒を連ね、延焼しやすい町並みだったので火防樹が宿内の
数カ所に植えられました。昔はどこの宿場にもありましたが、静岡県内で残っ
ているのは、ここだけだそうです。

二川一里塚跡

江戸から数えて72番目の一里塚です。次回は、ここから二川宿に入ります。
いよいよ三河国の旅が始まりますよ! お楽しみに~!